創業者、清水忠太という人

当時を知る人に清水忠太のことを尋ねると、「忠太さんの駆け引きのない、さわやかな交渉は、相手をして、この次もこの人と取引がしたいと心の底から自然と思わせる人だった」と返ってきた。また、「信州新町の発展には道路事情の改善と産業振興が重要だ」と語り、地域振興にも大変熱心であったようである。41歳の時、国道19号線渋滞解消連盟副会長として、渋滞が非常に激しかった国道19号線(長信州新町~長野駅間)にバス停留所(退避所)21ヶ所整備を長野市に提案し、多額の私財を投じていた。

 

昭和4年(1929年)、清水忠太は和紙原料「楮(こうぞ)・カズ」の卸売販売業「清水屋」を営む清水帝重の五男として、上水内郡水内村(現・長野市信州新町)に生まれた。6歳の時、父親を失い、苦節のなか家業を手伝いながら進学をし、千葉県の建築学校を卒業した。卒業後は、東京の大手ゼネコンに就職をし、建設現場の施工管理に従事していた。ところが24歳の時、母親の強い求めに応じ、信州新町で兄を手伝い家業に従事することになった。昭和27年のことだった。
当時、信州新町を流れる犀川では、セメント製品の原料に適した良質な砂(北アルプス由来の砂)が採れていた。

昭和35年(1960年) 有限会社清水屋建材店創業

清水忠太は独立し、長野県立犀峡高校前(現・長野市信州新町支所前)に土地を購入し、店舗兼住宅を建てた。そして、セメント瓦の製造・施工まで手掛ける「有限会社清水屋建材店」を創業した。

清水忠太は地元でも大変有名な働き者であった。毎朝4時から仕事を始め、職人たちが出勤する前に瓦をトラックに積み終え、日中は外交に飛び回るとともに自らも瓦を葺いた。

さらに、文房具や食料品を販売する「清水屋支店」も創業し、妻あき子に任せた。当時の話を聞くと、清水忠太は夕方仕事から戻ると、職人たちに店の食料品を何でも振舞ってしまい、妻あき子は商売にならなかったとか...
また、地域の皆様には、犀峡高校前の瓦屋・文房具屋の「しみずや」「しみずやさん」「支店さん」と呼ばれ、親しみをもってお付き合いを頂いていた。

昭和40年(1965年) 住宅の新築・改修工事も本格的に

清水忠太は瓦の工事だけでなく、木造住宅の新築や改修の工事も手掛け始めた。
当時は、茅葺き屋根の葺き替えが多く、セメント瓦を施工するにあたり、屋根の骨組みからやり直す大規模な工事を数多くこなした。

昭和43年(1968年) 三州陶器瓦を長野へ大量導入

これまで、長野県は冬場の環境が過酷なため、陶器瓦(粘土瓦)が普及していなかった。

愛知県三河地域の瓦メーカーが生産設備を更新し、陶器瓦の耐寒性を大幅に向上させた。三河産陶器瓦はその品質の高さから、「三州陶器瓦」として名を派せ、全国で需要が拡大した。しかし、輸送体制と道路交通網が脆弱だったため、長野県への出荷量や出荷ペースが制限されていた。そこで、清水忠太は三州陶器瓦を取り扱う事業者としては長野県で唯一、大型トラックを購入し、三河まで直接大量仕入に行くことにした。今のように、高速道路はなかった時代。往復16時間はかかる道のりを不眠不休で走り、この生活は約15年程続いた。その苦労の買いもあり、常に安定した仕入量を確保でき、業界有数の企業となるとともに長野県の住宅事情の向上に大きく貢献することになった。
ちなみに、当時、瓦は現在のようなパレット積みではなく、手積みでのトラック輸送が当たり前であった。そこで、清水忠太は業界の先駆けとして、フォークリフトを購入し、さらには手作りの木製パレットや特注品の鉄パレットを導入し、作業効率や輸送効率の改善に努めた。
これらのエピソードは、地元、そして業界内でも語り継がれている。

昭和48年(1973年) 株式会社第一建材店へ

住宅事情の向上の時代的背景にあって、 瓦工事を核に、屋根、建築工事業の拡張を続けてきた。
こうした営業の上に立って、更なる成長・発展を図ることを目的に、商号を「株式会社第一建材店」に変更した。

昭和49年(1974年) セメント瓦の製造終了

長野県では、住宅の新築や既存住宅の屋根の葺き替えに三州陶器瓦を使用することが主流となった。

当社でも、セメント瓦を使用する工事が少なくなってきていた。また、犀川上流でのダム建設により、北アルプス由来の良質な砂の流入が減ってきていた。

そこで、創業からのセメント瓦の製造を終了することにした。

また、同年、長野市街地での工事の受注増加に対応し、長野市南部に営業所及び作業場を開設した。

昭和56年(1981年) 本社社屋を竣工

会社創立20周年を迎え、信州新町里穂刈に土地を購入し、本社社屋を竣工した。また、前年には、本社周辺域に大型トラックの乗り入れも可能な材料保管用の大型倉庫や加工場等を竣工した。ここから、第一建材店の新たな1ページが始まることになった。

平成8年(1996年) 全国へ向け、職人を求人

長野オリンピックの開催を控え、長野県北信地域は好景気に沸き、住宅建築産業もその恩恵を多大に受けていた。

しかし、好景気による企業の人手不足が大変深刻で、自治体も長野県外からのUターン・Iターン希望者に対する支援体制を築くなど官民一体となって、問題解決に躍起になっていた。

とりわけ、建設業界は職人不足から、仕事の受注量が削がれる状況であった。当社もリクルート社発行の転職マガジン「B-ing」にて、全国に向けて求人活動を行い、この苦しい時期を乗り越えることができた。

平成24年(2012年) 太陽光発電事業を開始

自然の力を利用して生み出される自然エネルギーの普及・拡大を目指し、まず、住宅の屋根を活用した太陽光発電システムの提案・施工・保守管理に取り組み始めた。また、弊社が所有する土地や建物の屋根に太陽光パネルを設置し、発電に少しずつ貢献している。

平成30年(2018年) 「日本屋根経済新聞」に当社が掲載

屋根材を取り扱う国内の事業者(メーカー・商社・施工会社)が購読する業界紙「日本屋根経済新聞」に弊社が掲載された。社会変化に対応し、業界団体が推奨する瓦事業から幅広い事業への展開を地方都市で実践している点や瓦業界では珍しい「女性社長」ならではの経営手法などが紹介された。「いつもの記事と違って面白い」と全国の読者に反響があったようである。

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